埼玉大学図書館

ジャン=アンリ・ファーブルの肉筆原稿について

ジャン=アンリ・ファーブルの肉筆原稿について

Sur les texts manuscripts de Jean-Henri Fabre, l’entomologiste

元埼玉大学教養学部教授 奥本大三郎

 

十九世紀フランスの博物学者、ジャン=アンリ・ファーブルの『昆虫記』は、大正十二年に、無政府主義者、大杉栄によって、第一巻が翻訳されて以来、日本で全十巻の全訳が三種類出版されている。その他に、ジュニア版などと銘打たれた、子供用に書き直されたものは、ポプラ社版、偕生社版その他、枚挙に遑が無いほど出版され、それぞれよく読まれている。

さて、その『昆虫記』第一巻の第三章、「タマムシツチスガリ」の冒頭に次のような文章がある。少し長いが訳して引用する。

「誰にでも起こることだが、その時の考えの成行きで、ふと読んだ本がはっきりしたきっかけになり、それまでまったく思いもよらなかった精神の地平線が、急に目の前に開かれることがあるものだ。

その書物との出会いによって、新しい世界への扉が大きく開け放たれ、それ以後は、自分の知力をそこに注ぎこむことになる。読書が火花となって暖炉の火を燃えあがらせるのである。この火花の助けがなければ、薪はいつまでも役に立たないまま終わってしまうであろう。こういう読書は、思想の発展のうえで、一つの新しい時期の出発点となるものであるけれども、そのきっかけは、しばしば偶然に与えられるのである。まったく思いがけない事情で手にした本、どうして目にふれたかわからない数行の文章が、われわれの未来を決定し、運命の轍のなかにわれわれを引き込むのである。

ある冬の夜、家族が寝静まってから、薪は燃え尽きてしまったけれどもまだ灰にぬくもりの残っている暖炉のそばで、私は読書に明日の心配を忘れていた。学士号をいくつもいくつも取ったうえに、二十五年も学校勤めをして、その功績も認められていないわけではなかったのに、私自身と家族のために一六〇〇フラン、つまり金持ちの家の馬丁の給金よりも少ない額しかもらっていない物理教師の、心の憂さを忘れていたのである。教育に関して当時はそんなふうに、恥ずかしいほど金を惜しんでいた。またそんなふうに役所の規則で決まってもいた。私がまともに高等教育を受けておらず、独学だったからである。

そんなわけで私は、教師生活のみじめさを読書のなかに忘れようとしていた。そのとき偶然、どんなきっかけで手に入ったかもう忘れてしまったけれど、一冊の昆虫学の雑誌の頁を繰ることになったのである。

それは当時の昆虫学の長老、偉大な学者レオン・デュフールによる、タマムシを狩るあるハチの習性についての研究であった。もちろん私は、そのとき初めて昆虫に興味をもったわけではない。子供のときから甲虫やミツバチやチョウが、私は大好きであった。幼いころまで、可能なかぎり記憶をさかのぼってみると、オサムシの鞘翅やキアゲハの翅を前にしてうっとり見とれている私自身のことが思い出される。

暖炉の薪はすでに準備されていたのである。それを燃えあがらせる火花だけがなかった。まったく偶然に読んだレオン・デュフールの論文がこの火花だったのである。

新しい光がほとばしり出た。それはまるで私の精神への天からの啓示のようであった。美しい甲虫をコルク張りの箱の中に配列し、種を同定して分類すること、それが昆虫学のすべてではなかったのだ。それよりもっと優れたことがあるのだ。それがすなわち、生き物の構造と、特にその働きを、内奥にまで立ち入って研究することなのである。私はその見事な模範を、感動でいっぱいになって読んだ。

僥倖は情熱をもって追い求める人間には必ず訪れてくるものだが、それからしばらくして私はそういう幸運に恵まれて、昆虫学について最初の論文を発表することになった。それはレオン・デュフールの研究を補うものであった。私の最初の論文はフランス学士院の実験生理学賞を授けられた。しかし、それよりもっとうれしい褒美は、私に啓示を与えてくれたまさにその人物から、私を激賞し、激励する手紙をまもなくいただいたことであった。老大家は大西洋岸、ランド地方の彼方から、歓喜に満ちた熱烈な手紙をよこし、私がこの道を続けることを強くすすめてくれたのである。

文中、「ある冬の夜」とは、一八五三年、ファーブル三十一歳の冬のこと。貧しさと不遇を嘆いてるが、その前年ファーブルはコルシカ島はアジャクシオの高等中学からアヴィニョンの高等中学に転任。アヴィニョンでの年棒は、コルシカでのように外地手当てがないので二〇〇フラン下がって一六〇〇フランであった。この年までに数学及び物理の学士号(ともにモンペリエ大学)と自然科学(博物学)の学士号(トゥールーズ大学)を取っている。しかし、教師としては肝心の教授資格を取らなかったので、昇任人事の対象外であったらしい。この国立高等学校にファーブルは十五、六年間勤めたが、昇任、昇給は一切無かったという。家族七人の生活のために、補習授業や個人教授などに精を出さねばならなかった。ファーブルが嘆いている通り生活は苦しく、思い切り学問をして名を成したいという彼の思いは満たされなかった。

そんな時、ファーブルは「自然科学年報」Animales des Sciénces naturellesという科学雑誌の、一編の論文に出会ったのである。著者のレオン・デュフール DUFOUR, Léon (1780~1865)は、フランスの大西洋岸、ランド地方の医者で昆虫学者であった。

その中には、タマムシツチスガリという蜂がタマムシを獲物として捕え、土の中の巣穴に保存して幼虫の食料とすることが記されている。

それまでファーブルにとって昆虫の研究とは、採集し、標本を作ってその外形を詳しく調べ、分類することであった。それが、今で言う動物行動学の分野の存在を教えられたのである。

レオン・デュフールの方法にヒントを得たファーブルは、タマムシツチスガリの仲間のコブツチスガリという蜂で、デュフールをはるかに凌ぐ重大な発見をし、「自然科学年報」に投稿する。そしてフランス学士院の実験生理学賞を受賞するのである。

今回埼玉大学図書館が入手したものはその論文の草稿で、他の草稿とともに一冊のノートに記されている。実際に発表された論文とは細かな異同があり、今後詳しく読み解いていかなければならない。『昆虫記』の原形として、ファーブルの思考過程が解る、まことに貴重な資料である。

この資料の入手にあたっては、情報の収集から納品まで、図書情報課長気谷誠氏が奔走された。購入は大学の英断によるものである。草稿翻刻にあたっては、いわゆる付けペンによるファーブルの読み難い字を、フランスでプルーストのマニュスクリを研究され、仏文手稿の解読に優れた西原英人氏が丁寧に翻刻してくださった。小冊子の出版には、埼玉大学研究プロジェクト経費の助成を得た。今後のファーブル研究に資することができれば幸いである。

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