平成16年度埼玉大学図書館新収資料「ファーブル・コレクション」について
元埼玉大学教養学部教授 奥 本 大 三 郎
『昆虫記』の著者で十九世紀フランスの博物学者である、ジャン=アンリ・ファーブル(1823~1915)の名は日本でもよく知られている。しかしその知られ方には少し問題がある、と言わねばならない。その理由は次のとおりである。
日本で、インテリと称されるような人々は大抵、子供時代に児童版で『昆虫記』を読んでいる。そしてファーブルは、フンコロガシ(スカラベ)や狩蜂の生態を、子供たちのために分かりやすく物語った人として記憶されている。
一方、いわゆるプロの昆虫学者で、ファーブル流の昆虫研究、つまり、動物行動学の立場から、というか昆虫を生き物として研究している人はきわめて少数なのである。
昆虫学者の多くは応用昆虫学、つまり農業のための害虫駆除の研究者であったり、昆虫を単に材料として使用している生理学者であったりする。中には昆虫を知らぬ昆虫学者などという人さえ見受けられることになる。
もちろん、それはそれで大切なことである。しかし、その型態において実に多様な分化発展をとげ(昆虫の種類数は三千万種という説がある)、行動においても、それこそ奇想天外の能力を発揮する昆虫は、学問研究の宝庫なのであって、直ちに応用には結びつかないとしても、昆虫そのものを研究の対象とすることはきわめて重要である。ファーブルの手法は型態の研究と並んで、昆虫研究の主流のひとつであろう。
さて、そのファーブルに関する、またとない貴重な資料を、このたび埼玉大学図書館が入手することができた。
その筆頭は、「ファーブル フランス・アカデミー最高栄誉賞モンティヨン賞受賞及び博物学学位取得論文用研究ノート及び草稿コレクション」というもので、中に八種の、ファーブル自身による手書きノート、草稿の類が含まれるが、その中の一冊は、彼のフィールドノートそのものなのである。「幼虫の餌となる甲虫を長期保存させるツチスガリの習性の観察」と題されている。ツチスガリは狩蜂の一種で、ゾウムシを捕えて幼虫の食料とする。この研究分野でファーブルの先駆者ともいうべきレオン・デュフール(1780~1865)は、タマムシを狩るタマムシツチスガリの生態を研究して、巣穴の中に保存され、幼虫の食料とされるタマムシがいつまでも腐らないのは、蜂が「未知の防腐剤」を獲物に注入するからであると結論づけた。
しかし未解決の問題に対して「未知の防腐剤」を提起したのでは問題を先送りにするだけで解決にはならない。ファーブルは野外でさまざまな実験を繰り返し、ゾウムシを狩るツチスガリで根本的な発見をした。そして動物行動学を大きく発展させることになるのだが、そのスリリングな経緯がこのノートの中につぶさに記されている。しかも清書され、文章を整えられた後の『昆虫記』の本文よりもその事情が生々しく記録されていて、一人の秀れた研究者の発見の喜びと感動が伝わってくるのである。
よくもまあ、これほど貴重な資料が入手できたものよ、と感嘆する。これがもしフランスの市場に出たのであったら、フランス政府はおそらく国外持ち出しの許可を与えなかったのではないかというほどの文化財である。
その他に今度入手したものに、『昆虫記』の初版本や決定版を含むファーブルおよびその周辺の洋書三五点(洋図書三二点、洋雑誌三点)、昭和初期に出版された二種類の邦訳版『昆虫記』を含む和書一七点、フランスで制作された記念メダル二点がある。洋書のなかにはファーブルがプロヴァンス語で書いた詩集もあり、これにはファーブルの友人で『プロヴァンスの少女ミレイユ』によってノーベル賞を授与されたフレデリック・ミストラルからファーブルに宛てた自筆の長い書き込みが添えられている。
これなら、立派な「ファーブル展」が出来そうで、埼玉大学図書館にも、他のどこにも負けない堂々としたコレクションが揃ったものと、この大学に永年勤めてきた私などは嬉しく、また誇らしく思っているところである。
(「むさしの」電子版 第3号 平成17年4月発行 より)